2015年12月1日火曜日

ペギー・マキントッシュの「白人特権:目に見えないリュックサックの中身を出そう」という記事の翻訳・A Japanese translation of Peggy McIntosh's "White Privilege: Unpacking the Invisible Knapsack"

以下はペギー・マキントッシュの「白人特権:目に見えないリュックサックの中身を出そう」という記事の翻訳だ。原典を読みたかったら、このリンクをクリックして。

The following is a Japanese translation of Peggy McIntosh's "White Privilege: Unpacking the Invisible Knapsack". The original article is here.

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白人特権:目に見えないリュックサックの中身を出そう
作者:ペギー・マキントッシュ
翻訳:マイカ・キリアン
編集:mirai

女性学の教材を全部のカリキュラムに追加したことで、女性が弱者だということを認めるのに、男性は特権があることを認める気が進まないことを何回も気づいた。彼らは女性の地位を社会、大学、カリキュラムなどなどの中に向上しないといけないと言っても、男性の地位を下げることに賛成しない。女性の不利から男性が利益を得ることといえば、タブーのような否定は多い。それらの否定は男性の特権が認められたり、減らされたり、終わらせたりすることを防止するのである。

男性の特権という現象を考えることで、階級制度は連動するので、男性の特権のように否定したり守ったりされる白人特権という現象もあることを気づいた。白人として、人種差別が他の人を不利な立場に置くことであることは教えられたが、私を有利な立場にする白人特権という人種差別の当然の結果を見えるように教えられなかった。

男性は男性特権を認識しないことを教えられるように、白人は白人特権を認識しないようにじっくりと教えられると思う。なので、白人特権とはなんなのかと、一人で考え始めたのである。そして、白人特権は毎日利益が得られることに当てにするが、存在に気づかないはずである、目に見えない労なくして得られた資産だと分かってきたのである。白人特権は食料、地図、パスポート、コードブック、ビザ、洋服、道具や空白のままの小切手が入っている目に見えなく、重さのないリュックサックのようなものである。

白人特権を説明するには新たな責任がかかってくる。女性学に携わっている我々は、男性特権を明らかにし、男性にその権力を手放すことを求めるので白人特権を持つことについて書く者は、「白人特権について説明してもその特権を減じたり、終わりにしたりするためにはどうしたらいいのだろう?」と尋ねるに違いない。

男性たちが、認識されない特権に基づいてどのくらい動いているかに気付いた後、彼らの抑圧的な行為の大半は無意識に行われていることが分かった。そして、彼らが出会う白人の女性たちが抑圧的であるという有色人の女性からの頻繁に起こる非難を思い出した。私たち白人女性は、自分たちがそのように抑圧的であると気づかないまま、そのように認識されていることを理解できるようになった。私は、この労なくして得た皮膚色の特権を享受し、その存在についての忘れ去られるように条件付けられていることを考え始めた。

学校教育からは、自分を抑圧的な、不当に恵まれた、腐った文化の参加者であるように見るという訓練を受けることはなかった。私は、自分の道徳的な状態が、個人の道徳的な意思によることを教えられた。私の同僚のエリザベス・ミンチは次のように指摘した: 白人は自身の生活は道徳的に中立の立場にあり、規範的、平均的、しかも理想的だと教えられた。ゆえに、白人が他人のために努力すると、それはもっと白人のようになるような仕事だとみなされる。

私は自分の生活の中で、少なくとも、白人特権から生まれる日常の影響を特定することによって、自分自身を磨く努力をしようと決心した。階層や宗教、民族的な身分、地理的な場所などより、自分の場合、皮膚色の特権のにつながる条件の方を選んだ。それらの要因はすべて複雑に絡み合っていることは当然だけれども。私の知っている限りでは、私が毎日、または時折、特別な時、場所そして職種において連絡をとっているアフリカ系アメリカ人の同僚、友人、知り合いはこれらの条件を予想していない。

(条件のリストの翻訳は次のリンクからもらったが、原典を知らないので名前をつけない: http://ericweblog.exblog.jp/15398382/

原典は「race」を「属性」に翻訳したが、意味は違うから、「人種」に変えた。)

  1. たいていの場合、自分の人種のために不利に扱われることはない会社に入ろうと思えば入ることができる。
  2. 引っ越す必要性が生じた場合、引越し先で自分が払える金額の家や自分が住みたいと思う家をほぼ間違いなく借りたり購入したりすることができる。
  3. そのような土地の近隣者らは、自分に対して中立的な立場をとり、自分に感じよく接してくれることはほぼ間違いない。
  4. たいていの場合、一人で買い物に行くことができる。誰かにつけられたり、嫌がらせをされたりすることはないとかなりの確率で断言できる。
  5. テレビをつけ、新聞の一面を開くと、自分と同じ人種の人が大きく出ている。
  6. 自分たちの国の遺産や「文明」についての話を聞く場合、自分と同じ人種の人がそれらを成し得たと説明を受ける。
  7. 間違いなく、自分の子どもたちは自分の人種について肯定する教材を与えられる。
  8. 自分さえ望めば、この自分の人種の持つ特権についての記事を載せてくれる出版社をほぼ間違いなく見つけられる。
  9. 音楽店に行けば自分と同じ人種の人の音楽を見つけることができるし、スーパーに行けば自分の文化的慣習にあった主食を見つけることができる。また、美容室に行けば自分の髪を切ってくれる人がいる。
  10. 小切手、クレジットカード、現金などを使う場合、自分の人種が原因で、見た目上の金銭的信頼を失うことはない。
  11. 自分の子供のことを好んでいないかもしれない人から、たいていの場合、自分の子供を守ることができる。
  12. たとえ自分が毒づいたり、古物を着たり、また、手紙の返事を書かなくても、人はそれが不道徳だからだとか、貧乏だからだとか、また、自分の人種の集団が非識字だからだとは思わない。
  13. 権力のある男性グループに対し公然と話ができる場合、その能力の評価が人種に基づいてされることがない。(例:「すばらしかったわ。あの人は〇〇人種の誇りよね。」「ひどい演説だったわ。だけど、〇〇だしね。仕方ないわね。」)
  14. 自分の人種が認められていなくても、困難な状況をうまく対処していける。
  15. 自分の人種の人々を代表して意見を述べて欲しいとは、決して頼まれることはない。
  16. 世界の大多数を占めているのは有色人種だが、彼らの言葉や習慣を気に留めないままでいても、自分の文化において罪の意識を感じることはない。
  17. 政府のことを批判したり、また、どれほど自分がその政府の政策や行動を恐れているかということを話したりしても、他文化の人間とはみんなされることはない。
  18. 「責任者」と話がしたいと言った場合、ほぼ間違いなくその責任者は自分と同じ人種の人間である。
  19. 交通巡査に止められる場合や、国税庁が自分の所得税申告書を監査する場合、人種が理由で自分が選ばれたことはない。
  20. 自分と同じ人種の人を使っているポスター、ハガキ、写真集、カード、人形、おもちゃ、子供向けの雑誌を簡単に購入することができる。
  21. 自分が属す団体のミーティングに出席した場合、孤立した、場違いだった、数で圧倒された、意見を聞いてもらえなかった、敬遠された、怖がられたと感じるよりもむしろ、たいていその団体と自分の結びつきを感じて家に帰ることができる。
  22. アファーマティブ・アクション(差別撤廃措置)を取り入れている雇用主のところに就職しても、人種のおかげで就職できたのではないかと同僚に疑われることはない。
  23. 公の宿泊施設を選ぶ場合、自分の人種が理由でそこに入れなかったり、ひどい扱いをうけたりするのではないと心配することはない。
  24. 法的または医学的助けが必要な場合、自分の人種が理由で不利になることはない。
  25. うまくいかない日、週、年があっても、それぞれの否定的エピソードや状況に差別的な意味があるのかどうかを問う必要はない。
  26. 人種の肌色(桃色がかったクリーム色)の傷用カバーやバンドエードを選ぶことができ、多かれ少なかれそれらを自分の肌の色とマッチさせることができる。

捉えどころのない、はかない

このリストを書く前まで、そのことへの認識を忘れることが何度となくあった。私にとっては、白人特権は捉えどころのない、はかないテーマとなっていたのだ。それを避けるための重圧は大きく、それに立ち向かうためには、能力主義社会であるという神話をあきらめざるを得ないのである。以上のことが真実なら、この国はそれほど自由な国ではないということになる。例えば、自身の人生は自分で切り開くことではなく、ある人たちにとっては、彼らの持つ徳を介さずに切り開くことが多くなるということである。

この目に見えないリュックサックの中身を出してみることで、かつて当然だと思っていた日常体験の条件をリストにしてみた。これらの必要条件が効果を与えている人に対して悪く思うこともしなかった。しかし、この条件の中には、社会のすべての人にそうあって欲しいと思われるものも、また、無知、無関心、思い上がり、破壊的になる許可を与えることもあるので、もっと細かく区別された分類が必要だと思う。

私は白人として受け継がれた推測の傾向と白人特権の基盤に流れるある種の様式が見えるようになった。一つの中心になる文化的な縄張りがあったのだ。それは、私の番であったし、私はその縄張りを支配できる者の一人であった。私の肌の色は、選んだ方がいいと教育されてきたどんな動きに対しても財産なのだ。主要な場所にいるという帰属意識を持って、社会制度を自分自身のために扱えるように考えられた。優位な文化の外にある物事を自由に見くびったり、怖がったり、無視したり、また気に留めないこともできた。主要な文化の中にいて、その文化を自由に批判することもできた。

私の人種集団が自信を持ち、快適にそして無関心でいればいるほど、別な人種集団は、自信を失い、快適さを失い、疎外感を感じていたのだ。私の白さは、さまざまな種の敵意、苦痛、暴力などから自分を守ってくれた。同時に、有色人種の人たちにそれらのことが降りかかってくることを微妙に教えられていた。

そういうわけで、特権という言葉は今、私には誤解を与えるような言葉に見える。特権とは、労して得られたか、生まれや運によって手に入った恵まれた状態だと思われることが普通である。しかし、私が説明した条件の中には、制度的に権限を与えすぎるものもある。そのような特権は単に、人種や性によって支配をもたらすだけなのだ。

もたらされた強さ、労なくして得られた権力

それでは、もたらされた強さと労なくして得られた権力を制度的に区別したいと思う。労なくして得られた特権は強さに見えても、実は、逃げたり、支配したりするための許可なのである。でも、そのリストのすべての特権が、必ずしも他人を傷つけるということではない。近隣の人にやさしくされたり、法廷で人種がゆえに不利にならなかったりするのは、社会の規範になるべきだ。他にも、自分より権力のない人たちを無視するような特権は、特権を持っている人も無視されたグループの人たちの人間性をもいやしめる。

最初に、頑張れば広げられる積極的な有利さと、捨てなければ現在の階級制度を強化してしまう否定的な有利さを認めることから始める。例えば、アメリカの先住民が言うように、人間の輪の中に帰属するという感情は、少ない人数のグループだけの特権になるべきではない。理想的に言えば、それは労なくして得られた権利だ。現在、その特権をもっている人たちは少ないので、その人たちにとっては、労せずに得られた利点である。この記事は、私が最初に言っていたアメリカで人間としての必要な権力が労なくして得られた利点ともたらされた支配だということを認める過程で出た結果である。

制度的にそして労なくして得られた男性の利点ともたらされた支配について悩んでいる男性に会ったことがない。私と私のような人間にとっての質問は、労せずに得られた人種の利点ともたらされた支配について苦悩したり、激怒したりするかということであり、もしそうだとすれば、どうやってそれを軽減するかということである。とりあえず、特権が実際にどんなように日常に影響を与えるか特定しなければならない。たくさん、いや、ほとんどのアメリカ人の白人の学生は有色人たちではないので、人種差別に影響をされないと思っている。白さが人種的アイデンティティではないと思う。その上、利点を与えるのは人種と性だけではないので、年齢、民族、体力や、それとも国籍、宗教や性的志向に関連づけている利点も考えなければならないのである。

同じような利点を見つける仕事に関して困難と怒りが多い。人種差別と性差別と異性間差別は同じではないので、それらに関してのそれぞれの利点も同じに見られるべきではない。その上、何もせずにもらった社会階級、経済階級、人種、宗教、性や民族志向の利点からホワイトプリビレッジを解きほどくことは困難である。しかし、「黒人フェミニストの1977の声明」に書かれているように、すべての抑圧はからまりあっているのである。

連動している抑圧の中で一つの要因は明らかである。目に見える積極的な形と、支配的なグループに属するメンバーの一人として見えないように教えられる組み込まれた形とがある。私の階級と場所だと、人種差別ということが、生まれてからグループの中で人種的な支配を与える目に見えない制度ではなく、グループのメンバーによって個人的な悪意のある行動だと教えられてきたので、自分は人種差別主義者ではないと思った。

その制度を変えることにただ反対するだけは足りない。白人の一人ひとりが、態度を変えたら、人種差別は終わるだろうと教えられた。だが、私たちに支配がもたらされた方法に賛成しようが反対しようが、アメリカの「白色」の肌は多くの扉を開いてくれる。個人の行動は、それ等の問題を緩和することはできても、完全に無くすることはできない。

社会制度を再設計するために、まずはその制度のものすごく大きい目に見えない局面を認めることなのである。特権を取り巻く沈黙と否定は、解決の手がかりになる政治的な道具である。それらの沈黙と否定は平等や公平に対しての考え方を不完全にするが、何もせずに得た利点ともたらされた支配という話題をタブーにすることで、それらの話題を守るのである。白人が話す、平等な機会についてのほとんどの話は、支配する地位をとる機会を得るためのものだけれど、支配的なシステムの存在を認めていない。

能力主義であり、民主的な選択が平等に手に入るという神話を続けるために、男性特権を気に留めないと同様に、白人特権もまた気に留めることのないアメリカの文化となっている。自信のある行動ができる人が少ないことについて、ほとんどの人に気付かせずにいることは権力を持った人の立場を強化し、権力をすでに持っているグループを守るためである。

制度の変化には何十年もかかるが、私と私と同じような考えを持った人には、白人として、もし、日常の意識を高めれば、その意識でどうするかという重要の質問がある。男性を見ることで、労なくして得た利点で隠された利点のシステムを弱めるか、勝手に与えられた権力で幅広い基盤で再構築するかという開かれた質問があるのであろう。

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